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​episode 1

暗い部屋の隅で、自然と浅くなる呼吸を殺した。気配を殺した。居場所を悟られることのないように、何もかもを殺した。僕は、ここにはいないから。どうか見つけないで。いっそのこと消えてしまいたいほどの恐怖に飲まれながら、やけに大きく響く自分の鼓動だけを聞いた。うるさい。消えろ。お前なんか、いなくなってしまえ。知らない声が耳の奥で反響して、ぎゅっと全身の筋肉が強張るのを感じた。丸めた身体が粘土に変わって、じわじわと固まっていくようだった。ユベールは、この感覚を知っている気がした。ずっとずっと、近付いてくる何かの気配に怯えていたような気がした。物心がついた頃から研究所で育てられたユベールに、昔の記憶はない。どんな両親のもとで、どのように育てられていたのか。思い出そうとしても、最初から何もなかったかのように真っ白だ。どれだけ遡ろうが白紙ばかりが続いていて、一文字たりとも刻まれてはいない。なのに、物陰に身を潜める瞬間にどこか懐かしさが香るのは、身体に昔の記憶が残っているせいだろうか。消えてしまいたいと願って、息を殺して、身を縮こまらせて。恐怖に苛まれていた感覚を、身体だけが覚えている。考えれば考えるほどその事実が不安になって、逃げ出すように目を瞑りたくなった。だけどきっと、そんなことは許されていない。今のユベールたちには、果たすべき任務がある。ユベールだけが現実逃避に閉じこもっていて良いはずがなかった。だから代わりに、金色を目で追った。感覚を研ぎ澄ませるように、息を詰めて宙を睨んだ金髪の少年──レジスの後ろ姿を、縋るように眺める。彼とは研究所に来てすぐの頃からの長い付き合いだった。だからといって、友人と呼べるような関係というわけではないけれど。ユベールが暗闇に迷い込みそうになったとき、光になって道を照らしてくれたのは、いつでも彼だったから。レジスの姿を見ていると、細波立つ心がほんの少し凪いでいくような気がするのだ。彼は決して、ユベールを否定しないからかもしれない。長い間研究所にいるくせに満足に能力の使えないユベールのことを、役立たずだとかお荷物だとか、そんな風に罵ることは決してない。どれだけユベールがどうしようもないミスをしても、呆れて見捨てたりすることもない。必要以上に言葉を交わすことはないけれど、突き放されるようなこともなかった。そんなレジスの存在に、少なくとも任務に出ている間は甘えているのかもしれない。何の価値も生み出さない、ただただ無為に消費されるのを待っているだけの命でも、危険に晒されれば生存本能が働くものなのだろうか。考えたところで答えが出るはずもない問いを頭から追いやるように、ユベールは深く静かに息を吐き出した。

 世界の覇権を握るだろうと言われた二つの巨大国家。互いのすべてを懸けた戦争の火蓋が切られてから、十数年が経過していた。押しては引いて、引いては押して。くるくると目まぐるしく移り変わる戦局を覆すため、ひいてはこの戦争に終止符を打つため。敵国の新型兵器に苦戦していた国家は、研究所となる施設を設立することを決めた。非凡な能力を持つ一握りの子どもたちを一箇所に集め、国の戦力にしようと目論んだのだ。そうしてユベールやレジスのような特殊能力者が集められ、幾つものグループに編成されて戦争のための任務を果たすようになった。ユベールと共に物陰に身を潜めた少年少女は、他に七人。研究所に属しているユベールは、あるグループの一員として敵国の拠点に潜入しているというわけだった。今回ユベールたちに与えられた役目は、新兵器に関する機密書類の奪取だ。頭の切れるレジスが立てた綿密な計画のおかげで、書類自体は無事に彼の手の中にあった。だが、対象を確保して拠点を後にしようとしたところで、レジスが警備兵の足音を──彼の能力は聴覚の強化だから、音には敏感なのだろう──聞きつけたのだ。そこで慌てて隠れたものの、逃げているだけでは八方塞がり。打開策を求めて縋るように、ユベールは身を縮こまらせながら、レジスを見上げているというわけだった。

 

「五、十……不味いな、数十人規模でこっちに向かってきてる。あまり頼りたくはなかったけど……ヴァレリー、ロイク、シャルル。陽動、頼める?」

 

 形の良い眉を難しげに顰めて、レジスが掠れた声で囁く。名前を呼ばれた三人は、互いに顔を見合わせて頷いた。八人の中で、最も戦闘に長けているのが彼女たちだ。最年長の二十歳であり荒事に慣れているヴァレリー、痛みに関する能力を持ち効果的に敵を叩けるロイク、根っからの戦闘狂で他者を傷付けることに躊躇いのないシャルル。この三人なら、敵の数が多くとも押されることなく立ち回れる。その隙をついて、残りの五人が脱出する。すっかり定型化した、至ってシンプルながらも効果的な作戦だった。

 

「それじゃあ私は、状況の確認担当だね! ヴァレリー、手貸して!」

 

 声を潜めながらも明るく笑って、マノンが告げた。言われたとおりにヴァレリーが手を差し伸べ、その両手をマノンの小さな手がぎゅっと握る。それは今から戦いに向かうヴァレリーを励ますようでもあり、大切なものを預かるようでもあった。何度か確かめるように瞳を瞬かせ、マノンが得意げに自らの胸を叩く。

 

「うん、オッケー! ちゃんと見えてます! みんな、頑張ろうね!」

 

 マノンの持つ特殊能力は、視界の共有──他人の目を借りて、世界を見ることが出来る。陽動部隊のヴァレリーと視界を共有することで、三人の状況を把握することが出来るのだ。脳に流れ込む視覚情報が通常の二倍になる分、酷く体力と精神力を消耗するのだが、それを悟らせないかのように彼女の口調は明るかった。

 

「……頑張ろう。皆、どうか無事で」

 

 難しい顔をして押し黙っていたベアトリスも、覚悟を決めたように顔を上げて告げた。彼女の言葉が合図だったかのように、陽動の三人が音もなく立ち上がる。ヴァレリーは影絵のように気配を消して、ロイクは楽しげに口角を吊り上げて、シャルルは感情の読めない飄々とした表情で。敵を引きつけるために、歩みを進めていく。

 

「いたぞ! あそこだ!」

 

 程なくして耳に飛び込んできたのは、空気を切り裂くような怒号と銃声。シャルルのものだろう哄笑が響いて、すぐに掻き消されていく。銃火器特有の煙たい匂いが鼻をついた。死を連れてくる匂いだ。何度経験しても慣れない感覚に、身が竦むのを感じる。うぅ、と苦しそうなマノンの呻き声が聞こえて、また自己嫌悪が湧き上がった。年下のマノンがこんなに頑張っているのに、ユベールには何も出来ない。戦えもしなければ、能力を使うことも出来ない。ただ迫り来る死の予感に怯えて、身を縮こまらせているだけだ。どうか、みんなが無事でいられますように。怪我をしませんように。そんな願いを嘲笑うかのように、壁一枚を隔てて聞こえる銃声は激しさを増している。

 

「……近い。このタイミングで出て行っても、見つかって蜂の巣になるだけだろうね。だからといって、いつまでもここで待っていられるわけじゃない」

 

 不機嫌そうにレジスが舌打ちし、苛立ちを鎮めるように細く息を吐き出した。ユベールたちが隠れているこの場所も、人が雪崩れ込んでくればじきに戦場に変わるだろう。そうなれば陽動の意味がなく、任務は失敗する。多少のリスクを覚悟で動くべきか、それとももう少しだけタイミングを測るべきか。慎重に動きすぎて、取り返しのつかない事態になりはしないか。あらゆる可能性を検討するように、レジスが目を伏せて黙り込む。その様子を見たトリスタンが、微かに眉を上げた。

 

「……燃やすか」

 

 まるで決まりきった報告であるかのように、淡々とトリスタンが告げる。ああ、とレジスも納得したような声を漏らした。予測しない混乱が起きれば、注意が逸れる。拠点を守ろうとする者、命の危険を感じて逃げ出そうとする者。自分たちの務めを忘れない者もいるだろうが、きっとほんの一握りだ。人数さえ減ってくれれば、レジスたちだけでも対応出来る。敵の研究拠点を一つ潰せるわけだから、十分理に適っている。彼の中で結論が出たかのように、レジスは頷いた。

 

「よし、それでいこう。トリスタン、任せたよ」

 

「ま、待って……!」

 

 考えをまとめたレジスを、慌てたように制止したのはマノンだった。何、とレジスが不満げに口を尖らせる。視界を共有し続けているせいで、マノンの顔色は血の気が引いたように真っ白だった。ベアトリスにもたれかかるようにしながらも、レジスに向かって口を開く。

 

「燃やしたりしたら、みんな、どうなっちゃうの……?」

 

 澄んだ空色の瞳を不安げに揺らして、マノンが尋ねる。聞いていて心が痛くなるような、悲しげな声が震えた。

 

「あの三人は、これくらいじゃ死なないでしょ」

 

「そうじゃなくて……! こんな狭い場所に火をつけたら、たくさんの人が死んじゃうよ……!」

 

 両目に大粒の涙を湛えて、マノンが訴える。ヴァレリーたちは強い。この拠点がたとえ火の海になろうが、大量の水が押し寄せようが、即座に対応して最善の行動を取るだろう。拠点が燃えたくらいで、命を落とすはずがない。これまで八人で任務にあたってきて、その程度の信頼はある。だが、敵がヴァレリーたちと同じくらい強いとは限らない。数が多ければ多いほど、混乱の生じる確率は上がる。統率を失い瓦解した集団ほど脆いものはない。敵を殺さずに済む保証は、どこにもない。マノンが言いたいのは、そういうことだろう。

 

「自分たちの命が危ない状況で、敵に情けをかけるなんて馬鹿だ。向こうだって僕たちを殺そうとしてるんだから、殺されたって文句は言えないでしょ。それとも、寝返りたいわけ?」

 

「……違う、けど」

 

 レジスの正論を受けたマノンは項垂れ、それきり何も言わなかった。ユベールにも、彼女の言いたいことは分かる。犠牲を出さずに済むのなら、なるべく誰のことも殺したくない。誰にも傷付いてほしくない。だけどそれはきっと、甘えた理想論なのだろう。ユベールたちがいるのは戦場で、すべての任務は戦争に勝つために必要なことだ。戦争において、誰かを守ることは誰かを傷付けることと同義になる。大切なものを守るためには、犠牲にしなければならないものがある。そう頭では理解しているけれど、それでも火をつけることへの抵抗は拭えなかった。

 

「……火、つけるぞ。下がってろ」

 

 ポケットからライターを取り出したトリスタンが丸めた紙に火をつけ、銃声の響く扉の近くへと放った。薄暗い部屋が眩い明かりに照らされて、思わず目を細める。灯された小さな炎は舐るように紙を燃やし尽くして広がり、部屋の床を侵食し始める。細くたなびいた白煙が、めらめらと音を立てながら黒く染まっていく。部屋の内側にも、扉の外側にも、生き物のように揺らめき出した炎が広がっていく。物の焼けていく嫌な匂いが鼻を刺して、息を止めた。部屋が煙で充満していく。曇り濁った視界の中で、トリスタンがマノンを抱きかかえたのがかろうじて見えた。逃げなくちゃ。震える足を叱咤して立ち上がり、気を抜けば涙が溢れそうになる目元を拭う。火の勢いは一瞬のうちに増して、熱風を受けた皮膚が焼けるようにひりひりと痛んだ。ゆらゆらと蠢く橙色に包まれた扉が見えなくなって、悲鳴と怒声が一斉に押し寄せる。

 

「今だ!」

 

 レジスが叫ぶのと同時に、ベアトリスが地を蹴った。敵に状況を把握させる前に、先手を打て。これまでの任務で、レジスが何度も言っていたことだ。部屋を飲み込んでいく炎の中を突っ切って、ベアトリスが正面から退路を開く。赤いポニーテールが、燃え盛る火の中で靡いた。混乱する敵兵には目もくれず、ベアトリスは真っ直ぐ駆けていく。遠くでガラスの割れる音が響いて、それと同時にレジスがぐっとユベールの腕を掴んだ。

 

「逃げるよ」

 

 ユベールを連れ出すように腕を引いたレジスが、ベアトリスの背中を追って走り出す。もつれそうになる足を奮い立たせて、ユベールも炎の中へと飛び込んだ。上手く息が出来なくて、頭の中が真っ白になっていく。それでも腕を掴むレジスの手の感触が、ユベールを確かな生へと引っ張っていた。炎が、熱が、混乱が遠ざかっていく。どうかみんなが、無事に帰ってこられますように。紅色が焼きついた視界の中で、ユベールはただそれだけを願っていた。

***

 五人に背を向けて、身を隠していた部屋を後にする。胸を張って、背筋を伸ばして、前を見据える。乾燥した空気が肌に張り付いて、喉が渇いた。俺は、ここにいる。いつでもかかってこい。歩き方一つでそう示すように、堂々と歩みを進める。ロイクのすぐ斜め後ろで、ヴァレリーが気配を殺したままそっと目を伏せた。犠牲になった哀れな子羊を悼む修道女のような眼差し。彼女が再び、ゆっくりと瞼を開く。普段の優しげな光は、もうその双眸に宿ってはいなかった。暗く濁った、人を殺し慣れた者の目だ。足元の砂粒を踏み荒らすように、躊躇なく命を奪える者の目だった。ロイクたちから少し距離を取ったところで、シャルルはふらふらと重心を揺らしながら歩いている。彼の表情は、ヴァレリーとは対照的だ。獲物を目にした彼の瞳は、確かに輝いていた。まるでお菓子を強請る子供のように、嬉しそうに口角を吊り上げて、ステップを踏むようにゆらゆらと歩いていく。隠れる気のないロイクたち三人に、研究所の所員たちはすぐに気がついたようだった。

 

「捕まえろ! 絶対に逃すな!」

 

 低い怒号が飛び交い、バタバタと聞き苦しい足音が迫ってくる。厚底の軍用靴が、数十人。揃わないリズムでばらばらと、こちらに向かって駆けてくる。研究所の警備を担当している敵兵だろうか。ベアトリスたちを連れていたならまず逃げ道を切り開くのだが、今は違う。今のロイクたちの役目は、囮になること。そして、彼女たちが逃げるための時間を稼ぐことだ。戦闘を出来るだけ長引かせるか、敵を無力化する。それが今回の目的だ。間違えるなよ、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吸い込んだ。体格のいい男たちが数十人、ロイクたちの眼前に並んでいる。一番奥で偉そうにふんぞり返っているのは、彼らの上官か。それとも、研究所の重役だろうか。いずれにせよ指示役であることに間違いはなさそうだ。挑発するようにわざと声を上げて笑えば、彼の額に青筋が浮かぶのが分かった。ここの研究所の警備を任されているのが彼ならば、二十にも満たないような青年たちに自分の城を荒らされて、面白いはずがない。大人の事情とやらはロイクには分からないが、偉い人なりの責任だってあるのだろう。撃て、殺せ! 耳障りな嗄れ声に応じて、男たちは威嚇するようにばらばらと銃を構えた。どうやら訓練された軍隊、というわけではないらしい。敵国の諜報員が、まさか研究所に直接乗り込んでくるなんて考えもしなかったのだろう。見た目こそ強そうだが、形ばかりの軍人を寄せ集めただけの集団なのかもしれない。銃を構える彼らを認めた瞬間、ロイクはひらりと両手を上げた。まるで降参するときのように。自分は、手に武器を持っていない。丸腰の状態だ。やるなら、ご自由にどうぞ。それは相手の油断を誘うジェスチャーであり、同時に挑発でもあった。ご覧ください、とマジシャンが掲げた右手のように、男たちの注意が一手にロイクへと惹きつけられる。その瞬間、ロイクは跳んだ。思い切り地を蹴って、一気に敵との距離を詰める。直後、一番近くにいた男の手を勢いよく蹴り上げた。重い銃火器に振り回されて、彼の重心がブレる。発砲が間に合わない。いとも呆気なく、頼みの綱だった銃は彼の手から離れて転がっていく。男の目が一瞬、焦ったように見開かれた。その隙をロイクが見逃すはずがない。渾身の力で顎を蹴り上げれば、ぐらりと男は地に倒れ伏した。武器を持った人間は、敵が丸腰なのを認めると少なからず隙が生じるものだ。理性では良くないと分かっていても、本能が油断する。自分が優位に立っているという傲慢が、僅かに気を緩ませる。それはどれだけ戦い慣れた者であっても変わらない。無意識の領域に、必ず驕りが芽生えるものなのだ。武器を持っていない相手を、見下してしまうものなのだ。だからロイクは、武器を持つことを嫌う。身一つで戦場に乗り込み、身一つで帰ってくる。それはロイクにとって、ある種の矜持のようなものだった。油断しきった相手を無力化するほど、簡単なことはない。一人、二人、三人。薙ぎ払うように、周囲の攻撃を躱しては蹴りを食らわせる。気配を殺したヴァレリーが、敵の背後に回り込んで喉元を掻き切るのが視界の端に見えた。心の底から楽しそうなシャルルの笑い声も聞こえる。敵兵の動きは、先程と比べて明らかに慎重になっていた。当然だ。一度、銃火器という自分たちの優位性を崩されているのだから。彼らが武器を失ったとしても、互いに丸腰の対等な条件に戻るだけだ。だが、有利な状況を覆されればそのことを認識出来なくなる。負けるかもしれない。殺されるかもしれない。生々しく迫り来る死の恐怖に、身体が竦んで動きが鈍る。その隙を狙って、ロイクは再び大きく跳躍した。銃を手にしたままの男たちが、一斉にロイクに銃口を向ける。宙を舞う無防備な身体は、絶好の的になる。武器を持たないロイクには、銃弾を弾き返すことなど出来ない。激しい発砲音が集中し、ロイクの身体をいくつもの銃弾が突き刺した。皮膚の表面で、火薬が爆ぜる。錆びた鉄と焦げた匂いが鼻を刺し、突き破られた皮膚から真っ赤な液体が勢いよく噴き出した。びちゃびちゃと濁った音を立てて、まだ温かい血液が床に撒き散らされる。全身を貫く痛みに、予想していたこととはいえ顔を顰めた。だが、まだ耐えられる。まだ大丈夫だ。歯を食いしばって痛みを堪え、全身の筋肉を硬直させる。落下してたまるか。痛みのせいで体幹を失ったようにぐらりと傾く身体を、重心をコントロールするように捻った。無様に落下するはずだった両足に、ぐっと力を込める。的確に、狙った場所に着地するために。開いた無数の傷口から、どろどろと血液が溢れ落ちていく。警備兵に指示を出していた上官の頭上に、血の雨が降り注ぐ。彼のもとに着地するために、ロイクは飛んだのだ。気を抜けば意識を飛ばしそうな痛みに襲われながら、ロイクは叫んだ。意味のない言葉を、喉を枯らして叫んだ。自分の役目を、果たすために。落下の衝撃を使って、上官の肩を勢いよく蹴り付ける。一瞬の出来事に回避する暇もなく、攻撃を受けた彼はその場に倒れ込んだ。身体のバランスを崩して転倒した、ただの打撲だ。致命傷になんて、なりえるはずがない。誰もがそう思っただろう。ロイクだって思ったはずだ──ロイク自身が、能力者でなければ。

 

 肩を蹴り付けられ、倒れ込んだ直後。地に這いつくばる男の唇が、微かに震えた。何かを予感するように。掠れた声が零れて、怯えたように目が見開かれる。ロイクは血塗れのままで、口端を上げた。黒衣を纏うその姿はきっと、彼の目には死神のように映ったことだろう。悲鳴は、短かった。地の底から響くような濁った絶叫は、苦痛で声の出し方を忘れてしまったかのように、すぐに途切れた。手足をバタバタと見苦しく痙攣させて藻掻いた彼は、すぐに反応をやめた。事切れたかのように、動かなくなった。

 

「お、おまえ……何をした!?」

 

 先程までロイクに向かって発砲していた男が、怯えを含ませた震え声で叫ぶ。ロイクは答えず、その代わりに笑った。お前も、同じ目に遭いたいか。そう告げるかのように。効果は覿面だった。何人もが銃を投げ捨てて踵を返し、駆け出した。結局誰にとっても、自分の命が一番大事なのだ。たった一つの大切な命を投げうってまで、得体の知れない能力者に立ち向かおうなんて恐れ知らずはそうそういるものではない。理由も分からず急死した上官、というパフォーマンスは彼らの戦意を奪うには十分だった。とはいえ、さっきのようなやり口は簡単に誰に対しても使えるものではないから、彼らが逃げ出すかどうかは賭けだったのだが。ロイクの特殊能力は、自分が受けた倍の痛みを触れた相手に返すことが出来る、というものだ。先程の例で言うならば、銃弾をいくつも撃ち込まれたロイクが受けた、その数倍の痛みが上官を襲った、というわけだ。ロイクの足元に倒れ込んだ彼の身体は、もうぴくりとも動かない。打撲自体は大した怪我ではなかったはずだが、あまりの痛みに心臓が先にお釈迦になってしまったのだろう。彼の手元には、役立たずだった一丁の拳銃が転がっていた。

 

「それ、要らない?」

 

 オモチャを見つけた子供のような無邪気な顔で、拳銃を指差してシャルルが尋ねる。こいつは、いつも何を考えているんだ。そう思いつつも頷けば、シャルルはそれを大事そうに拾い上げた。真っ白な長い指が、引き金に添えられる。そのままシャルルは拳銃を倒れた男のこめかみに押し当て、指を曲げた──引き金を引いた。鈍い発砲音が、狭い部屋に響く。びしゃり。液体の跳ねる汚い音がして、真っ赤な血液が辺りを汚した。死体で遊んで、何が楽しいのだろう。既にロイクが引導を渡した相手だ、死者を必要以上に弄ぶ必要なんてない。彼が死んだのは、間違いないのだから。これでよし、と満足げに頷いたシャルルは、飽きたように拳銃を放り投げた。気付けば敵兵はいなくなっている。逃げ出したか、ヴァレリーに片付けられたらしい。ふと、背後から焦げるような匂いがした。扉の隙間から、炎がちらちらと舌を覗かせている。ベアトリスたちが、逃走のために部屋を燃やしたのだろう。混乱が生まれれば、逃げ出した兵士も再び向かってくる気にはならない。ロイクたちがこの場を離れる上でも都合が良かった。

 

「帰るか」

 

 伽藍堂の周囲を見渡してそう告げると、ヴァレリーも頷いた。この様子だと、ベアトリスたちも無事に逃げられただろう。下手に長居して、援軍が来ても厄介だ。足元に転がる死体を蹴飛ばし、ロイクたちは歩みを進めた。敵を前にしたときと何も変わらず、堂々と胸を張って。

 彼らの去った後には、焦げ付いた灰の塊と血溜まりだけが残されていた。

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